小序


故郷の上海にいながら、異郷にいるようなこの感触はいったい何だろう?窓外で走り回る子供達が上海の方言ではなく、普通話である標準語で会話しているのを聞いて、一種の故郷喪失を思うものだ。恐らく、郷愁を惹起するものは何と言っても「方言」と「味」なのだろう。まして視覚的にも大きく一変した風景の中に身を置けばなおのことだ。


国を出て三十余年を経て、中国の改革開放は激変を遂げた。出国、パスポート、ビザという言葉も、飛行機に乗ることも一般庶民には珍しかった当時、発行されたパスポートを皆に見せびらかす故、国を出るまですでにボロボロになっていた話を聞いたことがある。一冊のパスポートであんなにまで興奮できた頃が懐かしい!


回想録と言うと、どこか暮年の仕事のような印象であるが、この二年半の間、ほぼ上海の両親の側で過ごしてきた。一年前母が他界した時、もっと色んなことを聞いて記しておくべきだったとの悔恨から、その後父の介護と制作の合間に、この回想録を書きはじめた。容赦なく風化されゆく昔日の記憶を辿りながら、筆を進める毎日。しかし絵筆のようなわけにはゆかず、気に入る構成や行文には中々達せない。途中で何度も放棄する気持ちになった。


日本にいる時、中国での体験話をすると周囲にとてもに不思議がられたり、興味を示しめされたりしたことは度々経験する。それが最近もはや外国人のみならず、自国の若者にさえ「どこかこの世のものではない物語」に聞こえるようである。まさしく隔世の感を抱くものだ。時々「それを書いておくベキだ」と提言する人もある。


以上の要素はこの一篇を書く動力になってくれた。とりあえず日本に渡るまでのことを纏めることができた。


2014年春  上海の実家にて


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1、童年


母親の話だと、小さい頃の僕は、紙と鉛筆さえ与えておけば、いつまでも絵を描いていた子だった。幼少のころ、小児喘息で病弱だった。秋から冬の季節の変わり目に、よく夜中に発作し、ひどい場合、急患として病院へ運ばれ、注射や酸素吸入までする。当時両親の家の近くには病院がなかったので、僕だけ近くに第四人民病院(今は第一人民病院と言う名前、1945年までの日本占領下は市民病院と言う名前だった。僕も妹もそこで出産したと聞く)のある祖父の家に預けられていた。


この母側の祖父母は、二人とも社交的で、お友達がしょっちゅう遊びに来ていた家だった。ダンス好き、ギャンブル好き、女好きの祖父は又洋の東西を問わず、骨董が大好きだった。掛け軸の書画もけっこう持っていた。時々その骨董好きの仲間が手に入れたばかりのものをうきうき気分で持って来ては祖父と見せっこしていたのだった。そんな家へやってくる大人達は僕の絵も忘れなくよく褒めてくれた。お世辞とは言え、それが僕の幼い心に将来絵描きになる夢を植え付けてしまったとは大人達は想像しなかったんだろう。まだ小学校へ入る前のことだった。


2、絵のファーストレッスンと家宅捜査

1966年、十年に渡る「文革」(全称:無産階級文化大革命)が始まった。周囲の天変地変は丁度六歳だった僕には恐怖と驚きというよりも、ドラマーのワンシーンのようだった。幸も不幸も僕の小学から高校までの時期がこれに重なっていた。


この年、大学の入試制度が廃止され、“造反有理”を叫びながら、紅衛兵「註1」たちが方々を奔走し、壁新聞を貼り、ビラを撒く。“破四旧”「註2」の名目で教育機関並びに各地の寺院や教会など、施設の破壊と文物の焼却を展開して行く。学者や知識人、資本家などは反動勢力と見なされ、家宅捜査だけでなく、公開批判、暴行と人身侮辱を受ける。上海は8月末の二週間だけで、84000世帯がこの家宅捜査にやられたと言われている。同じころ。中央から警察の学生革命運動の鎮圧の禁止令が出され、いっそう国内の狂気沙汰が収束困難に陥った。多くの学者や才能有る人たちはその非人間的な弾圧に耐え切れず、自殺に追いやられた。うちのビルの屋上からは何人も飛び降りた。そのうち、この界隈の屋上に通じる高い建物の裏階段の扉には全部カギを掛けるようになった。


「註1」紅衛兵は1966年6月以降、大学生が主な熱狂的な組織、旧勢力に対し、暴力的な迫害や破壊を展開し、何千万もの死者を出した。同年8月『警察による学生運動鎮圧禁令』の発行で、暴徒化した破壊は続く。翌年1967年、紅衛兵内部の権力争いから武装闘争まで発展、労働者と軍の宣伝隊の介入で、段々表舞台から紅衛兵は姿を引く。そして1968年12月、毛沢東の知識青年の農村下放運動の呼びかけに応じ、政治組織としての解体が事実となる。二千万を越す都市部の青年が辺鄙貧困な農村へと散っていった。「破四旧」運動もこれで収束になるが、文物の破壊は、北京だけでも1958年に登録された6843カ所のうち、4922カ所は壊滅されたという。


当時、街中の至る所に、革命ポスターと政治漫画まじりの壁新聞、「これが美術だ」と、結果的にそれらは僕の絵におけるファーストレッスンだった。今にして思えば、それらの様式化された絵は決して上手とは言えないが、強烈なインパクトがあった。


あのころ、社会主義陣営の国々以外、欧米イコール資本主義、帝国主義、それらは人類にとっての悪であり打倒すべき対象だった。一方的な反感と闘志にかられる時代だった。異国にだけではなく、自国の伝統に対しても、あの「破四旧」」という大義名分の号令の元で、恨みでもあるかのような抹殺と破壊に、周りの大人達は明け暮れていた。パターン化された毛沢東謳歌のグッツ、革命に忠誠を煽る唄や踊り、中国大陸は赤一色だった。ビルの屋上のような高い所からしょっちゅう革命宣伝ビラが撒かれ、空中に舞うカラフルな紙片を皆が奪うようにキャッチする姿は今でも目に浮かぶ。「文革」は往々にして荒涼と殺伐のイメージだが、カラフルだった。


「註2」古い思想、文化、風俗、習慣を全面否定すること。


無産階級が社会をリードする唯一の階級だという毛沢東の提唱のもと、階級闘争が展開。赤貧即ピュア、知識と富みは罪悪視され、有産階級と知識人には地獄の日々だった。社会のピラミッドは完全に逆さまにした。


「文革」以前の段階で、私有を無くす国策のもとで、個人経営は許されず、祖父母と母は運営していた診療所を閉じ、各自の専門によって地域の病院に編入され、余儀なく給料を貰う国家公務員になったが、それでも文革の時、家宅捜査で我が家にも紅衛兵達がやってきた。カーキ色の軍服に赤い腕章,まだくそがき丸出しの十代の男女達だった。祖父の愛玩の数々は、奴らのおもちゃとなった。さも珍しいそうに、若い男が祖父の革ベルトを腰に巻き、舶来の双眼鏡を首に掛け、、、ハシャイでいる姿は子供の僕にはおもしろくなかった。

当時、造反派や紅衛兵にやられた家は、有産階級の不義の財産だと言って、金銀やアクセサリーは勿論、家具なども押収物として持って行かれる。1966年10月の発表ではそれまで国内で押収した金は6•5トンにのぼると言う。


記憶ではうちはあまり持っていかれなかったようだった。ただ多くの品々は、全部応接間に寄せ集められ、閉めた扉の上に毛筆で書いた字のある細長い白い紙を貼った。廊下の本棚の扉にも同じように貼った。いずれの紙にも何々革命委員会の字と赤い丸いスタンプが押されていた。革命でも書画のスタイルは墨守されていた。


家宅捜査の間中、家の大人達は怒りを殺し、緊張と不安をミックスした表情だった。隣の2号室の銀行家のご主人と中学の英語教師の奥さんを持つ家にも家宅捜査が入った。その翌日遊びに行ってみると、ベットの支え枠まで持っていかれ、ただマットと数個の椅子以外、家財道具らしいものは何一つ見当たらなかった光景は今でも覚えている。


家の斜向いに、今は十数階建てのマンダリンホテルの場所に、当時は大きな生鮮食料品の市場だった。「文革」の高潮期は、よく紅衛兵達に縛られて連れて来られた黒五類(地主、富農、反革命分子、破壊分子、右派)の吊るし上げの披露舞台に使われていた。うちのマンションの下の表玄関にもそんなのを時々上演された。2号室の英語教師の奥さんは髪の毛が糊でめちゃくちゃな形に固ませ、お辞儀の格好で椅子の上に立たせたままの姿を今でも覚えている。公開批判の後、ご主人は家に戻された奥さんの髪をお湯で硬くなった糊を洗い溶かすことを後で母から聞いた。僕の将棋はこの夫婦が教えてくれたのだった。小学校の算盤もあの銀行家のご主人から特訓を受けたのだった。さすがに銀行勤め、はじき方の素早いこと!色んな技を見せてくれたが、一つたりともマネ出来なかった。手品のようだった。もし未だ生きていたら、計算機と勝負してもらいたいぐらいだ。


うちのマンションの中、殆どが中流階級だった。4号室は虹口区区長が住んでいたと母から聞いたことがある。戦争英雄もいた。紅軍(赤軍)の英雄だったおじさんはとても優しい人で、家では知識人で国家幹部の女房に酷使され、好物の買い出し役を晩年まで素直に勤めていたけど、表玄関や踊り場で遊ぶ僕たちと遭遇すると、必ず「ちゃんと勉強するんだぞ」とにこにこ顔で言うのだった。妹の同級生で6号室の姚ちゃんのおばあさんは地主だったと言うことでで、思想改造を命じられ、毎日五階から一階の玄関までの掃除をさせられた。うちのビルはこの界隈で珍しくエレベーター付きだが、あのころ、ブルジョワジー的享楽精神を許さんと運転禁止、これは纏足をしていた足には酷な話だった。息子さんが毎日あの平地でもよちよち歩きのばあさんを脇から支えて階段掃除する光景は痛々しかった。


母の小さいころから家にいたお手伝いさんも田舎へ追い返された。初めてお手伝いさんのいない時期をあの時経験した。マンション中、我が家だけ西洋の冷蔵庫、テレビ、ピアノなどを所有していたことも、目をつけられた理由だった。兎に角、ルサンチマンを露骨な表現を許す時代だった。裕福だった人たちが裕福でなかった人たちに屈する時代だった。7号室と3号室は軍人系だったので、その子供たちは有頂天でやんちゃ放題だった。


3、祖父母のこと

祖父は文革の騒ぎで肺病になり、吐血は繰り返したが、家族の看病で一命を留め、八十年代、母校の医科大学の学術研修招聘で祖母と共に日本へ渡った。その足で生まれ故郷の台湾へと帰っていった。台湾と大陸のまだ緊迫した関係の当時、これは国を裏切る犯罪だった。大陸から第三国へ出国したままの形だったので、大陸に残るわが家にはその後はとやかく面倒なことはなかった。


僕が武蔵野美術大学版画科4年にいた頃、作品が第二回台湾国際版画展に入選した時、祖母が車椅子の祖父を連れて、台北美術館へ僕の作品を見に行ってくれた。僕の作品を指差して、周囲に「孫の作品だ」と自慢げに言ったそうだ。「お前の絵は見て分からないなー」とあとで台湾からの電話では言っていたけれど。


そのうち、二人とも台湾で亡くなった。二人の死を実際に接していなかったせいか、今でもどっかで生きていると気がして仕方がない。大好きな孫思いの祖父母だった。


4、親父のこと

1949年新中国成立、海外から沢山の留学生や華僑達が新中国建設のために次から次へと大陸へ向かった。日本の植民地だった台湾生まれの親父は十六の時、日本の兵役を逃れるため兄弟で東京の高校へ進学することに決め、日本へ渡った。東京工業大学卒業後、暫く日本で就職していたようだが、1953年故郷であり国民党治下の台湾ではなく、共産党の大陸へ向かう第二回の帰国船に乗り込んだ。一行は天津に入った後、その専門に合わせてエンジニアとして配属したのは上海第十七国営繊維工場だった。それは「文革」の時、後の悪玉の四人組の一人、王洪文がいた工場でもあった。


父は今年87、十六の時故郷を出たまま、まだ一度も故郷を戻ったことがない。大陸で波乱に満ちた人生を過ごした。今一体どんな心境なのか、人に質問されるタイミングを与えようとはしないままでいる。


「文革」で多くの仲間がでっち上げの罪名で自殺に追い込まれる中、生き残ってくれたことを家族の我々はただただ感謝の気持ちだけだ。どんな目にあっていたかは一切語らぬままでいるが、時代に翻弄された人生だったに違いはない。


「文革」終結後、政府の統一戦線部門や台湾民主自治同盟の責任者に任命されたが、淡々として「文革」の中同然、喜怒を表情に出さなかった。日本留学へ僕を送り出す時、もう帰ってくるなとは明言しなかったが、再び中国へ戻ることは親父を悲しませることだと僕はなんとなく感じていた。


父は2014年の中秋節の現在、24時間ヘルパー付きの敬老院の一人部屋で過ごしている。台湾語と日本語、そして普通話(中国の標準語)を交えながらの会話は有るものの、軽い痴呆て、複雑な話は通じにくい状態にいる。もっと早い段階に、気になるお話を聞き出すべきだと悔むばかりだ。


有形無形の文化財を惜しみなく一掃する狂気沙汰の文革は、知識と富は罪悪視され、貧困愚昧はイコール清廉潔白の時代だった。秦の始皇帝の焚書坑儒の再演に歴史は繰り返すとの認識に疑問を投げかけられまい。現在、大陸で次々と骨董品が様々のオークションに姿を見るたびに不思議に思うことがある。それらは一体どのようにあの大量破壊の「文革」をくぐり抜けてきたのかと。


革命に酔い、革命に踊らされ、麻痺した神経に、脱骨換胎の作業は無痛だったろうか?それとも単に乗り遅れまいと必死にファッションを追う者の心境なのだろうか?与えられた理性しか持たない人たちは今どんな気持ちであのころを振り返るのだろう?


歴史としてあの加害者達も被害者だった時代はもう永遠の過去であって欲しい。


5、一年生になった

1967年の冬、中央から学校再開と学生の学園戻りを呼びかける中、僕は小学一年生になった。教科書は『毛沢東語録』などだった。赤いプラスチックのポシエットに赤い毛沢東の語録。学生生活は終わりの無い政治学習に明け暮れ、『毛沢東語録』は1967年12月まで、3、5億冊も出版され、これは当時国内の文盲率を減らすことに一役を買ったという。


「文革」の勢いも下火になるにつれ、生活も幾分落付いた感じが戻って来た。当時、学校や工場、病院などの広場で大抵、毛沢東の顔や語録、階級闘争を鼓舞する標語などデカデカと描かれてある大きな看板が設置してあった。太陽とひまわりの宣伝画は校庭などでよく見かけた。毛沢東が太陽、その太陽に付いて廻るひまわりが人民を表している。その制作現場も一二度目にしたことがあった。方眼の格子を引いた小さな見本を確認しながらペンキで看板に大きく延ばして描いていくのだった。


6、ピアノレッスン

小学二年のころ、妹とピアノを習い始めた。毎週通い稽古にやってくる蔡先生は祖父母と同じく台湾出身で、そして母の幼い時のピアノの先生でもあった。ひどい近眼で、ビール瓶の底のような眼鏡の向こうに、ネズミのような小さな目、そして濃厚なニンニク臭い吐息をしながら、ピアノの盖に鉛筆で拍子をとるのだった。気乗りの時は、鼻でメロディーを興奮気味に唸ったりもするのだった。僕はよくピアノを弾きながら、蔡先生は普段話す時は吃るのに、歌う時は何故吃らないのかなといつも考えていた。


余談だが、あの四棟のビルの中、外国製のピアノを持っている家は我が家と隣の2号室だけだった。今時ピアノぐらいは何の自慢にもならないが、当時ではリッチに見られていた。祖母も母も、そして2号室のおばあさんもピアノが弾ける(敬虔なクリスチャンの彼女は、時々ピアノを弾きながら英語の賛美歌を唄うのだった。お腹から絞り出すかのようのオペラ唱法だった)ので、いつか自分もあのように弾きたいと小さい時から思っていた。が、絵からの引力は遥かに強かった。つい一年半ばかりで僕はピアノを止めた。妹はずっと後までレッスンを継続した。もっと習っておけばと今頃は思うのだが、当時はとてもそんな忍耐力は持てなかった。


7、一番目の絵の先生

仕方なく、母は絵を教えてくれる先生を捜し始めた。小学3年の頃だったと思うが、最初の先生は母の患者さんだった。三十過ぎくらいのおじさんだが、小児麻痺で、肩以下は幼児姿のまま、外出時は車椅子と言うよりベット車と言った方が実情に近い手押し車に乗っていて、遠くから見るとおじさんはまるで地面から車身を高くした白いレーシングカーに乗っているような感じだった。毎朝彼専用の女中に押されて虹口公園(魯迅公園)へひなたぼっこにやってくるのだった。家は製鉄会社を作った資本家で、おじさんは五番目の子になる。知的で大きな二重の目、鼻筋が高く、とてもハンサムな顔立ちだった。ベット車も身につける筆記道具や眼鏡などの小物たちは珍しいものばかり、寝たまま上を見る姿勢で直角に水平上の物をそのまま見えるドイツ製の眼鏡や、シャープペンなど聞いたことはあったけど、実物を彼の使うハーパーのシャープペンシルを見たのが最初だった。読書家で、知性に富み、ベット車の周囲はいつも青年達に囲まれて知的な会話を繰り広げていた。おじさんが得意としている外国語と絵画は多分生計を立てるために親から習わされたと今は想像する。肖像画や油彩なども描けると聞いて、母は「家の息子の絵も見て頂きたい!」との依頼で、ついにある日それまで描きためた絵を持っておじさんの家へ訪ねた。初対面には違いないが、以前公園でよく見かけた人が今日から自分に絵を教えてくれる先生になるとは、不可思議な気分だった。


「文革」の糾弾の後とは言え、依然ブルジョワージの匂いがぷんぷんする三階建ての一軒家の二階に、彼の部屋はあった。本棚とソファーと大きなステレオのある部屋、真ん中におじさんのベットがある。そのベットには色んなワイヤーのようなモノがついていて、それらを操って、必要なものを身辺に引き寄せられる仕組みになっている。理工系に暗い僕は、その仕組みを見て、機械的な仕組みの妙には至極親近感を覚えたのだった。


「デッサンを描きなさい、石膏像をよく見て、明暗を鉛筆でクロスハッチングで表現しなさい」との指導だった。そして、ギリシア彫刻のレプリカだと思うが、肩から手先までの石膏像を貸してくれた。素描を意識して絵を描き始めたのはそこからだった。おじさんは絵だけでなく、西洋古典音楽にも非常に詳しく、ベートーベンの第六や第九を小節ごとに聞きながら詩でも朗唱するかのように解説してくれた。それが僕のその後の音楽嗜好に大きく左右している。おじさんは世界中の切手も集めていて、しかも非常にプロフェッショナルなのだった。切手の扱い方、色んな記号の読み解き方などを細かく教えてくれた。


あの二階の部屋には色んな人が出入りしていた。年齢層もばらばらだが、総じて言うと、知的な人たちばかりだった。文学、音楽、絵画、写真、著名人のエピソードなどなど、当時の僕にはチンプンカンプンだったけれど、素養の匂いとはどんなものかはそこで感じたのだった。文化サロンのようなところだった。身障者にも関わらず、知れば知るほど、巨人のように見えるおじさんだった。ひとは見かけによらぬことを少年の心にしっかりときざみこんだのだった。おじさんの所を中学二年まで通っていた。


そこで僕は初恋に落ちた。相手はよくモデルになってくれた三階に住む先生の姪の女の子だった。 僕より二つ年下の彼女は頭がよく、清楚でとても可愛い子だった。 母以外は、周囲の大人達からはに至って好意的な目線をだった。彼女との付き合いは高校卒業後も暫く続いた。


8、絵師と彫り師

小学一年か二年の時、学校で切り紙が流行っていて、四新食苑(創業1926年の肉団子とワンンタンの老舗店)の三階に住んでいた陳君と二人で組んで、僕は絵を描き、彼はお父さんの使い古したカミソリの刃でそれをシャープに切っていくのだった。オリジナルの切り紙を沢山作った。休み時間に、教室や廊下で、みんな教科書に挟んである切り紙を見せっこして、気に入ると交換した。交換といっても、ノートの紙を相手の切り紙の上に載せ、鉛筆で端っこからこすっていく拓摺りを許すことだった。凝る奴は色紙で拓摺りして又自分で切り、オリジナルから色のバージョンを展開していくのだった。色んな遊びが流行っていたが、これが一番面白かった。十数年後、武蔵野美術大学で版画を専攻にし、浮世絵の絵師、彫り師と摺り師の話を聞いた時、何故か陳君と組んで切り紙を作った頃のことを懐かしく思い出したのだった。


小学生の頃の陳君は、手先が器用だけではなく、勉強は多分僕と同格だが、智慧に関しては遥かに富んでいた奴だった。電気や機械関係にめっぽう強く、どこで覚えたか知らないが、中央商場(日本で言う秋葉原の電気部品の市)と言うところへ行って、いくつかの部品を買って来て、ハンダー付けして、テレビ放送の音声を聞かしてくれた時は本当にびっくりした。まだ小学三年のころだったと思う。


再会したとき、陳君は一児の親となり、日に焼けたおっちゃんになっていた。高校を出て技術学校に入り、それから港でコンテナーを運ぶクレーン車の操縦士になったそうだが、あと二年で退職になる。もう四新食苑の三階から引っ越して、郊外に住んでいるが、陳君は今も上海に住んでおり、昔のままの我が家が懐かしいのか、僕が上海にいる間はよく遊びにやって来る。


中学でクラスが違ったせいもあって、陳君とは疎遠になった。僕も絵の方へ一層本腰を入れる段階に入り、交友関係も絵を目指す連中とばかり親密になっていった。次の再会を果たすのに35年間の歳月を要するとは思わなかった。相変わらず壊れた電気製品を直すのを誇りにしている奴を嬉しく思う。今でもうちの電気関係が問題になったら、電話一本で嬉々として飛んで来る。デジタル器機には手が出せないのをひどく悔しがってはいるけれど。


晩年寝たきりになったうちの母によくおいしいものを買っては見舞いに来てくれた。「やんちゃだった子供のとき、よくよその家の親が文句や苦情を訴えに家にやって来たが、俺をこども扱いして一度も怒らなかったのは周豪のお母さんだけだ。俺がどんなに感謝しているか」といつも感激の表情で語っていた。それを聞くと、僕も嬉しく、母のことも自慢に思えた。彼の話だと、食糧難だったあの頃、我が家のお正月用に作って干していたお餅を床にひっくり返し、家の女中さんにひどく怒られたそうだ。


9、サッカーと砂山

小学生の頃の記憶としては、病気で休みがち、体育の時間は見学に終わるのがほとんどだった。小児ぜんそくは特に、五月と十月の天気の変わり目に発作しやすく、逃れることは難しい。この病気の主はうちのクラスには二人、僕と8号室の陸君だった。

元気な時はサッカーをよくやった。へたくそだったが、蹴る力だけはあった。飛んで来たボールを一発で遠くまで蹴っ飛ばしてしまうので、廻ってきた役はきまって後衛だった。


あのころ一番面白く遊んだのは、長春路の道路脇に積んであった工事用の砂山の上で、落とし穴を掘ることだった。その前を通っていく家路に向かう同級生や後輩の子を誘っては,精巧にカモフラージュした落とし穴の上を歩き渡らせるくことだった。学校の庭での騎馬戦も面白かった。


10、メカの唐君

唐君はクラスで一番体が大きい子で、ものすごい力持ち。エンジン関係に強烈な興味を持ち、色んなことを相手の理解構わず滔々と語る奴だった。一度、体育の先生が教室でニコニコしながら皆に「昨日用があって、溧阳路を渡る時、唐君が道行くトラックをぼーと見ていた。随分時間が過ぎた後、先生が用事を済ませて戻る時、唐君が同じ格好でまだ突っ立っていた」と言って、クラス中で大爆笑だった。兎に角空母からジープまで、やたらに詳しく、聞いていてチンプンカンプンでも、奴の熱く語る様に引かれてしまうのだった。今も昔と同じところに住む貴重な同級生だ。もうてっぺんの髪の毛は大分薄くなったけれど。


11、僕らの語り部

もうひとつ今でも懐かしく想起するのは、われわれが報館と呼んでいた戦時中朝日新聞社員宿舎に住むクラスメートの劉君のこと、どこで仕入れたのか分からないが、いろんな物語を語ってみんなに聞かせたことだ。中ではホームズや緑色の死体の話が印象に強く残ったた。痩せた体で、細い目鼻立ち、どこか狡猾で思慮深い印象の彼は、僕らの語り部だった。彼が語り出すと、どんな遊びでも皆が中止してそばへやってくる。皆に囲まれた中で、自分でも楽しんでいるかのように語りだす彼は、下級、同級は勿論、上級生まで沢山のファンがいた。高校卒業の後、大学受験で彼は文科系に受かったとの噂には驚かなかった。


12、二番目の絵の先生

「文革」十年の教育はほぼ政治道徳が中心だった。試験やテストはあってないようなものだった。不平等といって留年を食らわすことはまずない。今の子供から見たら、遊ぶも同然の学生生活だった。事実、勉強は緩く、学校は楽しかった。勉強したと言うより存分に遊んだ。勿論その年頃が身につけるべき知識とは一切無縁だった。英語の授業もあったが、今でも直ぐ言えるのは「毛主席万歳!」と「私たちは革命の為に勉強する」ぐらいだ。僕たち1960年あたりの生れは、中国の伝統などを学校教育の中ではほとんどノータッチだった。毛沢東選集と人民日報の政治論評がそのままテキストの代役に務めることは珍事ではなく、叩き込まれたのは社会主義イデオロギーだった。


門戸を閉じていた「文革」の中、国外の文芸(絵画、文学、音楽そして映画)について、ルーマニア、アルバニア、ユーゴスラビア、朝鮮、北ベトナム、、、所謂社会主義国家のもの以外は何も知らなかった。美術史的には、印象派以降の消息は途絶えたままだった。登場する主人公が労働者、農民、解放軍でなければ文芸は成立しない風潮のもと、印象派などはブルジュワージ的趣味として毒草扱いされていた。それらに関する画集や資料は焼かれるか図書館に封印されていたため、閲覧することは禁じられていた。


「文革」が下火になるにつれて、学術研究や批判のためなどの名目で内部閲覧は出来た人たちは少しいたようだった。そういう場合、本の表紙に「内部閲覧に限る」、「内部参考資料」と言うスタンプが押されている書籍として、貸し出されるケースも見られるようになった。


学校の勉強は何の負担にもならないと思ったのか両親は僕が絵の道に進むための手だてを惜しまなかった。


次の先生は母の患者さんの知人で、若い男の先生だった。「文革」以前では名門の上海美術学校の出身で、卒業後シルクに模様を印刷する工場でテキスタイルの仕事をしていた。時々新聞の紙面に絵画作品が紹介される活躍ぶりを見せていた。石膏や静物ばかり描いていたのを見抜かれたのか、先生からは「兎に角動くものを描きなさい、スケッチをやりたまえ」との指導だった。二週に一度公園や家で描いたスケッチを丸めて先生の家へに見せに行ったのだった。やがて、墨絵の手ほどきもしてくれたが、興味が湧かなかった。と言うより、水墨画は文人画とも言われるぐらい、書の技術も詩の素養もなければ勤まらない絵画様式だったので、小さい時祖父が骨董遊びで達筆の友人に頼んで、書を教えてくれた時期があって、その無味乾燥の訓練にすっかり嫌気をさしていたことも原因だと思う。


13、魯迅公園

家から徒歩七、八分のところに魯迅公園がある。公園は虹口区にあるため、僕が日本へ行く前までは虹口公園と呼んでいた。これがいつの間にか魯迅公園と改名されていたが、地元の人は相変わらず虹口公園と呼んでいる。最近調べてみたら、1988年(丁度僕が武蔵野美術大学四年に在籍のころ)、上海市政府がこの改名を許可したそうだ。多分その便乗だと思うが、家の斜向いの郵便局も上海市郵政局魯迅支局と名乗るようになった。そこから投函する郵便や届く郵便に必ずその魯迅支局のスタンプが付く。子供の時から切手蒐集の趣味のある僕には狂喜に値する変化だった。


公園の面積は約22ヘクタール、1896年当初は射撃練習場として作られたが、1901年に虹口娯楽場として西洋人の遊び場兼体育施設として使われた。1928年に地元の人も入れるようにした。そして1956年に園内で魯迅墓苑と魯迅記念館を作り、万国公墓から魯迅の遺骨を移し、ここから有名な記念施設を持つ憩いの場として今に至る。魯迅の眠るお墓の背後に大きな墓碑と言うより、大きな壁に、周恩来の毛筆で書いた「魯迅先生之墓」の文字が彫り込んである。お参りに来る外国人の中では日本人が一番多かった。


あのころ町に道場がなかったので、公園は自然にその役割を担う。将棋、太極拳、京劇、バトミントンをやる色んなコーナーが自然発生的にできた。今でも様子は変わらないが、ただあの頃はもっと静かで公園らしさがあった。入園は有料から無料になった今は踊りや、合唱を練習する五十代前後の男女が、カラオケの機材などを持ち込んで、がんがん鳴らして、迷惑千万。一切無頓着の無様なこの連中を見ると苦笑しか湧かない。現在の公園は、入るには少々勇気と覚悟が必要だ。偏見かも知れないが、やはりあのころ公園で練習していた京劇の唄、胡弓や琵琶の音色は耳に心地よかった。公園に合っていた。


小学生高学年のころ、よくスケッチブックを脇にはさんで写生に公園へ出掛けた。暗黙了解の各コーナーをまわって。太極拳をやる人、楽器を練習する人、将棋をさす爺さん達、、、飽きずに描いていた。時たま絵のうまい人の写生に遭遇すると、完成して道具の片付けの終わるまで見入っていたもんだ。祖父母は毎朝公園に出掛けるのを日課にしていた。運動代わりに祖母は太極拳みたいなものをやっていて、祖父は裏山まで一回りするのだった。もっと小さい頃は一緒に帰るのだったが、小学生になってからは祖父母と一緒の帰りはだんだんと減る。成長することは、自分の時間を持つこと、自分のやることを決めることだった。


今でも上海にいる間は、虹口公園へ散歩に出掛ける。夏の夕方、蓮の池の畔をゆっくり歩くうちに、その日の制作の疲れが取れ、そしてリラックスした気分で家に戻って夕食のテーブルに付く。


14、ショーウインドーとポスター

上海の実家(両親も配給された楊樹浦の家から引き上げ、祖父のところへ越して来た)の四川北路、西側の窓は繁華街に面していて、真ん中の車道を挟んで両側は軒並みお店が間断なく延びる。

通った小学校も中学校も徒歩七、八分のところにあったので、放課後はカバンを肩に掛け、見物する気がなくとも、毎日見物しながらの帰り道だった。店のショーウインドーのディスプレーの入れ替えの時、飾り付け担当が背景に模様やレタリングなどを描いていたりするのを見つけると、作業の終わるまで必ずじっと見ていたものだ。


そして、家から歩いて五分ほどのところに、永安電影院(映画館)、更に足を伸ばしてもう一軒群衆電影院があった。あの頃、映画は数える程度のいくつかしかなく、映画館はいつも同じものを順繰りに上映していた。他に娯楽がないせいもあって、それでも映画館は大体満員だった。学生券は1角だった(僕は当時の毎月のお小遣いは5角だった)。今の映画館なら、本編が始まる前、やがて封切りする映画の予告やコマーシャルを写すのだが、当時は決まってニュースとレタリングされた政治スローガンのスライドを映した。その時代の男の子なら誰しもそうだったように、戦争映画が大好きだった。見た翌日はその主人公達は僕の作品に登場することはお決まりだった。しかもインパクトのある悪役の方が多かった。戦車、銃器などを描くのが大好きだった。台所の一隅に黒板があって、描いては消し描いては消し、どれだけの数の絵を描いたかはもう数え切れない。おそらくそれで白墨の腕が鍛えられたのだろう。小学校でも中学校でも、教室の背後の黒板新聞の絵柄担当は当然のように任された。出来の悪い僕でも、その時だけクラスで一番成績のいい女子(なぜか成績のいい女の子は皆可愛い)と一緒に同じ黒板に作業をこなしていく時間が持てた。彼女達は先生から渡された原稿をチョークで黒板に書き写していき、僕は空いたスペースを絵で埋めていった、、、。幸福の緊張でドキドキだった時間がいつまでも続いてほしかった。


映画館の切符売り場の横に大きな上映映画の広告壁があって、映画館のポスター係が大きな白い紙をその壁の上に貼って、ポスターカラーで直接次の映画の宣伝画を描くのだった。そういうラッキーチャンスに出くわす度に、私はそのポスターが完成し、“画家”が視界から消えるまで見守った。映画を見るより遥かに興奮と刺激を感じていた。「あー、大きくなったらこういう仕事ができたらなー」と羨ましくて堪らなかった。今でもあの時の将来へ憧れる甘美な興奮を想起する。


15、舶来品そして外国映画

日本では考えにくいかも知れないが、舶来品として思い出せる品物は二つ、キュウバーの砂糖とアルバニアのタバコだった。外国音楽で一番流行ったのは、朝鮮映画『花売り娘』の主題歌だった。その叙情的で悲しげなメロディーは今でも耳にこびり付いたままだ。当時としては珍しいワイドスクリーン映画だった。主人公の姉妹の悲運に大人の女性達がハンカチをびしょびしょにさせたものだった。反ファシズムを題材にしたユーゴスラビアやアルバニア映画なども大変な人気振りで、ヨーロッパを知る貴重な窓口だった。


『アルバニア画報』と『ルーマニア画報』も外国の雑誌として珍しい読み物だった.美術欄の油彩や版画は見もので異国の匂いがした。社会主義リアリズム一辺倒の内容だったけれど、中国よりはもう少し緩めの内容だった。


それから、チャイコフスキーの『白鳥の湖』の中の四つの白鳥の踊りの場面の見たさに、どれだけの人たちが、ソ連映画『1918のレーニン』を見たことだろうか。それも映画の中の悪い奴等がバレー劇場で『白鳥の湖』を観劇しながらレーニン暗殺の打ち合わせするというシーンの劇中劇だった。密封状態の国情の中の人間たちが、わずかな異国の文化の光に飢渇の目をギラギラさせた時代だった。


16、氷は溶ける

中国大陸を壊滅麻痺状態に陥れた狂気沙汰の「文革」は当初の三年ばかりだった。その後も臨時発作的に、様々な政治運動などが繰り広げられてはいたが、総じて言うと、電池でも切れて来たかの如く、状況は平穏に向かっていった。方々で家宅捜査を食わされた家の玄関ドアに革命委員会の「名誉恢復状」が貼られるようになった。わが家の玄関表にも貼られた。安っぽい紙切れ一枚ですべてをチャラにした形だったが、嬉しかった!ありがたかった!


1972年2月米大統領ニクソンが訪中し、世界を驚かせた『上海公報』の発表で両国の外交は正常化ヘと向かった(正式の国交成立は五年後のカーター大統領の時だった)。ニクソンが上海入りの時、何故か僕らは全員学校に閉じ込められ、ニクソンの上海市街地を通る時間をやり過ごしていたことを今でも不可解のままでいる。事前、街中をきれいに掃除せよとの指示も下ったと記憶にある。この年、後に“四人組”の一人の王洪文が毛沢東の後継者として上海から中央に抜擢転任した年でもある。


同じく1972年9月、日本の首相田中角栄が訪中、それまで敵視していた国々との国交成立が次々と実現していった。現在でも中国では、ニクソンと田中角栄の名前は古き友人のように好意的に覚えられている。


1973年孔子孟子の批判運動が起こった。しかし国民は長年続く政治運動に辟易していた。不思議にこの辺りから、ヨーロッパの有名楽団の訪れが見られるようになる。聴衆は厳選、演目は政府の了解を通らねばならない状況だったとは言え、大きな変化であった。これがやがて来る西洋古典音楽ブームの再燃の火種になっていくのだった。


17、絵を習う三人目の先生

中学へ上がる少し前、絵を師事する三人目の先生と出会う。今度は母の患者さんではなく、病院の同僚のご主人で、同済大学建築科で芸術を教える教授の朱先生だった。有名な画家でもあり、上海から全国美術展出品作の審査員も務めていた。


とても可愛がってくれた。小学6年生から週に1度、先生の家に通ったが、それは僕が日本へ留学に行くまで続いた。先生を慕う若い作家や学生達は常に沢山いたし、息子たちもいたが、彼らに絵を教える事はしなかった。しかし何故か僕には、やがて大人になり、また再会した時も、本当に最後まで、絵の指導をしてくれた。僕は先生の唯一個人で指導した弟子であった。


先生は呉冠中、趙無極(ザオーウーキー)と杭州国立美術専門学校時代の同級生で、当時から文通などの交流があり、それは最晩年まで続いた。


文革が低熱期に入ったとは言え、未だ外国の情報が無い当時、先生の家でザオーウーキーがフランスから送られてき来た画集とフランス製の油絵の具などを初めて目にした。ザオーウーキーの画集は僕にとって、最初に見る抽象絵画だった。皆目理解出来なかったが、あの透明感と、風が吹き払うような筆さばきには、爽快な感動と興奮を覚えたのだった。しかし内心のレーピンやレビータンのような画家に対する憧れは微動だにしなかった。あれから十数年、自分も抽象絵画に身を投じたことは、すでにその時致命的な促成因を注入されたのかも知れない。


先生の教えは自由に描くことだった。技術よりも創作する芸術家の姿勢を重点的に語った。画材など細かいことは一切気にしなかった。身の回り手当たり次第で、何でも描く道具にしていた。


七十年代後半、先生は上海で印象派絵画のスライド上映による講演会をあちこちでしていた。未だ内部講演会の形だった。会場は映画館や劇場だった。よく先生に誘われて、二人で自転車をこいで講演会場へ向かったことを今でも懐かしくそして熱く思い出す。そして会場を後にする道には毎回決まって熱心な聴講者達が先生に色んな質問をするので、自転車を押しながらの会話が少し続くのだった。時々人に「先生のお子さんですか」と聞かれたりもした。何故かそんな誤解を僕はとても嬉しくそして自慢にさえ思っていたのだった。


2000年上海の新天地で僕が版画による個展を開いた時、先生は車椅子で来てくれた。展覧会のオープニングステージのバックの「周豪抽象版画展」の文字もわざわざ事前に筆で書いてくれたものだった。会場には予想をはるかに越える来客があったが、日本在住の僕のことを知らない人はいても、先生を知らぬ者はいなかった。そしてそのレセプションで、先生は車椅子から立ち上がり、強い紹興なまりのスピーチの中で、僕の作品の紹介を軸に芸術の話を展開したのだった。僕は鼻が高かった。


日本へ渡ってからは、毎年上海へ帰る時、必ず甘いお菓子と新作を持って先生を会いに行った。短い滞在中、何回も先生から電話で呼ばれて行くのだった。晩年の先生は耳が遠くなって、こちらが「今日はちょっと行けない」と断っているにもかかわらず、先生は「じゃ、二時半待ってるからね」と嬉しそうに電話を切るのだった。嬉しい反面困ったものだ。


アートの話、外の話、先生はしたい、聞きたかったのだ。今頃はきっと天国で旧友達と熱弁しているに違いない。あー、あの強い紹興なまりの語り口がなつかしい!


今少し安堵に思えるのは、抽象になってからの作品も先生に認められたことだった。


先生の話で一気に飛んだが、中学の話にしよう。


18、中高生になった

1973年秋、78期生(1978年卒業見込みの意)として進学したのは、復興中学校(中高五年制の一貫校)だった。学校の前身は1886年,西洋宣教師が上海にいる西洋人の子供達のために建てた小学校だったそうだ。そして1946年、抗日戦争勝利の後、「上海市復興中学」に改名。校舎は四階建ての洋館で、とても格好いい。建物内は木の床、各教室にはペチカがあって、その上に黒板が設置してあった。トイレはタイル張り、蛇口は鋳物で模様が施されていて昔日のバタ臭い高貴さが漂っていた。運動場も広く、ある真夏の修了式、日射病で三四人倒れた中、僕もいたことを今でも苦々しく思い出す。校舎の廊下に運ばれ、手当を受けたその時のひんやりとした感触は今でも覚えている。


中学は同じ虹口区に散在する各小学校から進学してきた生徒の集まりだった。それまでよく喧嘩した違う学校の連中も今度は同じ校舎、場合によっては同じクラス。表面上は冷静を装ってはいたが、内心は皆ぴりぴりだった。


入学して直ぐ、当然のように美術部に入った。美術部担当の林先生は廣東人の特徴を濃厚に凝縮した男の先生で、美術と音楽の授業を両方受け持っていた。絵の他、色んな西洋や中国の楽器もでき、合唱団やダンスの指導までされていた。芸術家の幅というモノを初めて意識させてくれた先生でもあった。ヘビースモーカーで、タバコの煙に薫製された肌黒い顔と強烈な廣東語訛の普通話(北京方言を元にした中国語の標準語)は今でも懐かしく思い出す。もし会えるならもう一度お会いしたい先生だ。


19、偽造おみごと

体を鍛え始めたのは小学五年あたりからだった。鉄アレイや毎朝10㌔のジョギングは間断なくつづけた。体が段々と丈夫になり、しまいにはついに並以上の体になっていた。が、中学に入ってからも、よく病気を口実に学校を休んでは家で絵を描いていた。もう時効切れたのでここで白状するが、学校の無断欠席は許されないので、当時母親が書いた病気届けを偽造して出す手口を僕は常套手段にしていた。しかも卒業するまでバレたことは一度も無い。


20、油絵

美術部で三年上の季恆先輩、別の小学校から進学して来た同級の周銘との出会いから、油彩に大変興味を持つようになった。(二人とも後年留学ラッシュのなか、海外へ渡った。周銘はトロントで画廊も経営していたが、その後白血病を患い、異郷で亡くなった)。

季恆先輩の家とは徒歩五分の距離だった。あのころよく、先輩の家か我が家のどちらかで、一緒にモチーフを組んで鉛筆デッサンやガッシュを描いていた。不思議な偶然だけど、季恆先輩が住んでいる家は日本占領下の当時、母の日本人同級生の住んでいた家だった(母は小学から初中まで日本人として日本人学校に在籍していた)。季恆先輩のご両親は医科大学の勤めで、兄弟達も皆文学青年風だった。知的な雰囲気のある家だった。先輩の家で僕は初めてロシアの画集を目にした。レーピン、ソリコフ、レビータン、、、季恆先輩の得意げな潤色気味た解説もあって、僕の画家になる憧れは決意に変わっていった。そして自分も油絵を描くのだと決めたのだった。


21、鐘先生のこと

中学でもう一人、歴史を教える鐘先生のことが今でも強烈に印象にのこっている。美術を教える林先生と同じくヘビースモーカーで、同じくタバコの煙に肌黒く薫製された顔だった。授業の時は資料を一切持たず、指の間に挟んでいる白い棒状のモノは、白墨かタバコのいずれかだった。教壇の上を熊のように往来しながら強烈な紹興訛の普通話で、中国五千年の歴史を我が身に起きた出来事かのように滔々と語った。最高に面白かった!そのつよい訛のお陰で、一層印象的に覚えた内容は数え切れない。1978年大学受験再開の時、鐘先生は大学受験の歴史問題出題のため特別施設に隔離された。そしてその時、実はもともと有名大学の先生で、文革で中学に飛ばされて来ていたという噂を聞いた。そう考えると、ものすごく得した気分と感激と後悔のごちゃ混ぜな心境になる。思えば、あの頃、強烈で魅力ある先生は何人もいた。降下させられた大学の先生だったなら、完全納得だ。反抗期症状の強く出ていた奴らすらもその先生たちには畏敬の念を抱いていた。いつも仰角であの先生達をみていた、見上げたもんだった。


1974年10月、「文革」で失脚した鄧小平が一回目の中央復帰は、この国は大きく変わる暗示のような出来事だった。同年、農民楊氏が井戸水を汲む時に兵馬俑の破片を発見したことがきっかけで、1976年考古隊が調査に入った。奇しくもすでに文化遺産に対する破壊的な時期は過ぎていた。兵馬俑達も「文革」初期の大破壊を恐れていたようだった。そして1979年建国30周年の記念日に兵馬俑博物館は一般公開された。


22、絵画だ!音楽だ!

1978年鄧小平が再度政治舞台に返り咲き、思想解放を唱える。この年の特筆すべき大ニュースは『19世紀フランス農村風景画展』がやってきたことだ。開催地は北京と上海のみ。フランスからの88点の油彩作品で構成されたこの展覧会は、国中を驚かせた。全国各地から美術関係者、美術ファンが怒濤のにように殺到し、開催三日目には急遽美術家協会会員証の所持者以外には切符は購入出来ないと規制まで出されたそうだ。幸い、僕は当時師事していた先生が美術家協会の理事でもあったので、徹夜で並んで切符を入手する戦いに参戦せずに済んだ。


長い鎖国状態からまだ完全に蘇生されてはいなかった。外交官以外、庶民が国外に出ることはあり得ない状況だった当時、油絵本家の実物が目の前にやって来たのだ。画家も含め、生まれて初めて西洋の油彩を見る人も大勢いた。興奮と熱狂は当たり前だった。

会場内の人々は殆ど瞬きすることすら惜しいとでも思うかのような目つきで壁の絵を見た。まるで目で展示物を飲み込んでしまうかのようだった。


バルビゾン派を中心に自然主義、現実主義の絵画が多く、会場の人たちと同様、僕は世界の傑作に圧倒された。その後二度とあのような観覧光景を目にしたことはない。熱かった!フランス様、ありがとう!

あれから24年後の2012年、上海の中華芸術宮(曾ての上海世界万博会場の中国館)で『ミロ、クールベとフランス自然主義ーオルセー美術館藏品展』が開催された。、沢山の作品の中、十点ほど30年前に見た作品も来ていた。30年前まるで取り憑かれたかのような観覧風景とは打って変わって、会場は信じられないぐらい見やすかった。入場者制限だけが原因ではないと思う。食品難、情報遮断、規制だらけの中で生きていた人から見たら、実に腹立たしい変化振りだ。みないつの間にこんなに生意気になったんだ。かく言う僕もすでに冷静になっていたわけだが。


『今日の日本美術展』を上海美術館で見たのも30年前のその頃だと思う。東山魁夷、杉山寧、平山郁夫、小磯良平など日本画壇を代表する画家たちの作品を初めて見た。日本画のマチエールの不思議な感じも印象に残った。もう一つ『浮世絵から日本現代版画展』を上海博物館で見た。それまで魯迅の興した三十年代の木版運動の作品しか知らない僕は、日本現代版画の精緻な表現に感動した。池田満寿夫、横尾忠則の作品は特に強く印象に残った。入場券の絵柄は靉嘔の作品だった。後に僕が日本へ渡り武蔵野美術大学で版画を専攻した時、池田満寿夫が客員教授として来たことには大興奮したものだ。そして大学院の終了制作作品展で池田満寿夫先生は院生の数人の作品を買い上げてくれたが、その中に僕のも入っていた。それは大変誇らしく思うと同時に、作家としての自信も貰った。


1979年は中華人民共和国建国30周年にあたる。この年の10月にカラヤンが日本公演の帰路にベルリンフィルを率いて北京入りしたことも特筆すべき爆弾ニュースだった。その時のエピソードとして、カラヤンが平均年齢36歳の中央楽団のメンバー達が、西洋古典音楽がブルジョワージの産物として禁じられていた中、どうやって演奏レベルをあんなに高く保てたかの疑問に対して、その場にいた人がこう答えたそうっだ:「師生問わず、多くは家でこっそり西洋音楽を聞いたり、楽器を無音状態にしてずっと練習していたからだ」と。


同年、小沢征爾がボストン交響楽団を率いて北京公演。あの時、小沢征爾が中国杭州の昔日の街頭盲人芸人の作曲した二胡曲『二泉映月』を聴いて、「これは跪いて聞くべき音楽だ」と吐露したことを今でも伝えられている。中国瀋陽生まれの小沢征爾は1976年すでに旅行者身分で一度中国入りを果たしている。そして1978年中国中央交響楽団を指揮して首都体育館でコンサートを開いた。


23、映画

七十年代は、国家間の交流にはスポーツと芸術は無難かつ有効な切り札として飛び交う中、映画ファンと音楽ファンの飢渇を癒す時代でもあった。日米との国交恢復に連れ、日米の映画は国内で上映するようになり、次々と映画ファンを獲得していった。

アメリカ映画は殆ど文革期間に封印したものの再上映だった。チャプリンのことは小さいころから名前は知っていたが、チャプリン映画をその時初めて見た。


日本映画はほぼ同時期のものかと思う。高倉健、中野良子、原田芳雄、栗原小巻、松田優作、岩城滉一、緒形拳などがスターだった。中でも『君よ、憤怒の河を渡れ!』、『人間の証明』、『砂の器』など、いくら我慢して待っても、切符が手に入らな人気振りだった。ダフ屋には幸福なご時世だった。「金、返せ!」と、今でも言いたし。


『君よ、憤怒の川を渡れ!』を見た後、男達はみな襟を立てて歩いた。映画の中の高倉健のように。


『人間の証明』で僕は初めてファッションショーの舞台の様子を目にしたのだった。そして山中ジョーが歌うあの映画のエンディングソング「麦わら帽子の唄」は中国全土で末長く流行った。後に山中ジョーが中国でもコンサートを開いた。


1978年をキーワードで書くならいろいろあるが、なかでもこの年に78期生として北京電影学院(北京映画大学)に入学した張芸謀(チャン・イーモウ)、陳凱歌(チン・ガイカ)たちのことだろうか。1950年代生まれの彼らは、中学卒業と同時に農村に下放「註3」された。十年振りに復活した大学受験に、農村から猛勉強して受かったのだった。すでに三十を目前にした年齢だった。その農村体験と社会錬磨に持ち前の才能を開花させ、その後、中国の第五世代映画監督として世界にその名を知らしめることになる。


「註3」1968年12月、毛沢東の知識青年の農村下放運動の呼びかけに応じ、紅衛兵の政治組織としての解体が事実となる。二千万を越す都市部の青年が辺鄙貧困な農村へと散っていった。農作業を通じて愛国と革命の覚悟を高めるためだと言う。


数年前、張芸謀の自伝を読んだ。その中に、青春時代にソビエトや共産圏のプロパガンダ映画ばかり見ていた彼が、高倉健主演の映画を見て、日本に対する印象は一変し、高倉健へのただならぬ敬愛を抱いてしまったとあった。

後年、撮影兼主演をした映画『古井戸』が東京国際映画祭で受賞、その式で張芸謀が憧れの高倉健を目の前にした時の感動振りを、興奮のタッチで綴っていた。そしてその時、いつか高倉健主演の映画を作ると、心の中で決意したそうだ。(残念ながらその張芸謀の自伝は今手元にないため、摘訳は出来ない。)


数年後、『千里走単騎』の台本を作って、熱心に高倉健を口説いた結果、出演が実現したという。

その打ち合わせのために、渋谷の喫茶店で張芸謀一行が高倉健と対面していた時のくだりが僕は非常に好きだ。

店の隅っこのテーブルに高倉健が顔を壁に面して坐っていた。張芸謀達が表向きだった。

そのうち、「高倉健」と気付いた他の客たちは店を出るとき、声をかけることもなく、みな遠くで静かにその背中に深々とお辞儀をして行ったそうである。高倉健本人は知る由もないが、張芸謀達はこころの中で驚嘆せずにいられなかった、ということだ。


24、外国語ブーム

七十年代に入って、やがて外国語を習うブームが到来。僕がラジオの外国語教育番組で日本語を習い始めたのもそのころだった。当時としても希有な方だが、我が家の大人たちは台湾語か日本語での会話が日常だった。なので日本語は幼少の頃から殆ど聞いて理解出来たが、読み書きは出来なかった。その時、特別な目標はなかったが、両親のように流暢に日本語を操りたい、本棚の中の和文の本を読んでみたい、というくらいの気持ちで習い始めたのだった。それが後の日本での生活にどれだけ役に立ったことだろうか。その時は想像だにしなかった。


日本語を得意している両親は、政府の指示の元、日本語教師に転職させられたのも1978年。母は、日中合弁企業の宝山鋼鉄工場の日本語育成学校、上海外国語大学などで日本語を教えるようになった。父は日本語の辞書編集に借り出されたり日本語文法の教科書なども作成した。学校以外でも個人で是非教えてほしい、と青年達が家に殺到した。お金を貰うのは資本主義的だ、という常識から両親はお金は取らなかった。だが、正月など祭日ともなると、皆たくさんのお土産を手にやってきた。消化するのはけっこう大変だったが、未だ物資配給の時代だったことを思うと、本当に有り難たかった。時代によって見下されたり、見上げられたりする両親の気持ちはどんなものだったのだろう。ドラマのどんでん返しを目の当りにする感じだった。


25、読書

70年代末期から80年代初頭、どんな本でも、何を出しても売り切れてしまう時代だった。どこの新華書店(中国の国営書店)も開店前から本を買う長蛇の列。出版業界にとっては幸せな時代だった。どう売るかではなく、どうすれば需要に間に合うかの問題のみだった。新書とは言え、多くは封印された「文革」以前の再版もの、中国、ロシア、そして十八、十九世紀の西洋古典文学作品だった。現代西洋学術文庫シリーズとして難解なニーチェ、サルトル,ハイデガーなども出たが、それらもすぐに売り切れてしまう。人々の本に対する飢渇は今の人間には想像し難いことだ。

回し読みで、新書でもあっという間にボロボロになった。そんな時代の読書熱に漏れず、僕も国内外のもの問わず、続けざまに色んな本を読んだ。ちょうど高校と浪人の頃だった。やがて次第に文学作品から離れ、哲学や宗教の本に興味は移って行った。今もそういう類いの本が好きである。


文革が終わる1976年以前の書店と言えば、毛沢東選集、マルクス、エンゲルス、レーニンなど、社会主義や共産主義理論の本しかなかった。文学作品や子供向けの漫画もおとなしい脇役のように並べてあるが、革命や階級闘争の内容一色だった。時々美術ポスターも登場するが、政治宣伝画ばかり、絵の好きな僕はそれでもそれらを見ることを楽しみにしていた。


いつの時代にも、禁止となったものを隠し持つ者がいるものだ。当時も、古い小説が親密な友人達の間で密かに回し読みされていた。我が家にもロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」などが来た。勿論それはクラシック音楽を聞くのと同じで、密告されれば立派な犯罪だった。期限付きの返上が約束だったから、家族で読む時間を配給した。何でも配給の時代だったので何の不満もなかった。

大人は昼間出勤なので、夜間に読む、僕ら子供は昼間の放課後に読む。読書にあんなに引きつけられたことはそれ以来はなかったと言えよう。本当に楽しかった。そして読んだ感動と興奮はこっそり心の中で隠し持たなければならないのも、妙な快感だった。


26、「文革」幕閉じ

1976年1月、時の総理周恩来が逝去、同年9月毛沢東が後を追うように他界。その翌月の10月、四人組が逮捕されるのを持って、文革が終止符を打った。高二にもなろうとしていた年だった。

翌1977年廃止されていた大学生徒募集が再開のニュースが発表された(これは1966年6月から十年振り)。


勉強はそっちのけのそれまでの雰囲気と打って変わって、周囲は真面目に学業に力を注ぐ気配が漂い始めた。受験を念頭に勉強を必死にしなければならないという状況の中、得意なのは美術だけの僕は、一層ついて行けなくなり、孤独と戸惑いを初めて味わった。


美大か、工芸美術専門校を目指すのは唯一の選択だった。しかし、あの頃、「文革」前と同様、大学は全部国立、大学生は、国から助学金と生活費が与えられる待遇だった。言ってみれば国家公務員同然だった。その替わり、卒業後の進路も国の采配に従うのが常識だった。100人に5人ぐらいの狭き門、これが美大、音大や映画学院ともなれば、更なる狭さ、大陸全土に美大がたったの八校(中央、浙江、天津、瀋陽、魯迅、四川、広州、湖南)しかなく、各専攻は年間全国範囲でわずか十数人しか取らない過酷な競争倍率だった。どう努力しても無茶な挑戦に感じながらもは受けた。当然ながら落第、落ちることが当然過ぎる結果だった。


27、日本へ渡る

美大や工芸専門学校の受験の重なる失敗の辛酸を舐めながら、軍隊の募集も受けたが、鼻炎で落とされ、地域の労働者募集で工場に入った。従業員五百人あまりのプラスチック造花工場(上海製花一厰)だった。初任給15元貰った時、はじめて父が1950年代すでに月給120元、母が60元貰っていたことを大金に感じたのだった。


女工が殆どの工場の中、もともと日本語が出来、絵も描けるということで、受験の落伍者ではありながらも、それなりに一目置かれたようだった。結構好かれていた。後に女工と恋にも落ちていた。

当時中国統一戦線政策方針のもと、「文革」の時代と真逆に、台湾を本籍に持つわれわれは、特別待遇にあった。特にめぼしいメリットは思い出せないが、自分らは特別だという気は当時少し持っていた。一年近く機械修理工を勤めた後、左人差し指を七針を縫う大けがで倉庫管理員に配置換えになった。倉庫係はたったの四人、仕事始めは部品交換などに来るが、その後は何もする事が無かった。実働一時間ぐらいの内容だった。ただ読書で時間をやり過ごした。社会主義国家らしい勤務状態の影はまだまだ尾を引いていたのだった。国営企業は終身雇用、しかも勝手に辞職も通常ありえないので、定年まで、見通せた。絶望まではいかないが、まるで結末の分かった推理小説を繙くような心境だった。


やがて、このままでは息子の人生は無為に終わると父も思ったらしく、日本にいる旧友に留学の手だてを頼んだ。祖父母も、父もまた日本の大学を卒業していたからだ。未だ国内で海外留学がブームになる何年も前のことだった。1983年5月10日僕は持ち出し許可金額の日本円一万五千円を懐に東京成田空港に降りたのだった。


日本へ渡るまで、僕の「美術に関する知識は?」と聞かれると、抽象絵画以前の美術として印象派の画家たち、その前はロシア巡回派美術と中国文化大革命の絵画以外何も知らなかったと答える。日本留学までに見た一番前衛の作品は恩師の家でみた趙無極(ザオーウーキー)の画集、ピカソのゲルニカ(七十年代末ごろ北京テレビニュース番組で数秒間目にした程度)だった。ピカソはコミュニストであり、ゲルニカは反戦をテーマの絵画だから。



周 豪 2014年春上海の実家にて






                                                                                                                                                                   

 

絵描になりたい少年の話                       

1970年代後期に上海で描いたデッサンとグワッシュ